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2017-05-07

イエスの瞑想と光のマッサージ


魂と肉体の境界線をあいまいに

イエスの瞑想と光のマッサージ

イエスの瞑想

今年のゴールデンウィークはなんと! 9日間ポッカリと空きました。例年、GWは勉強会を開催したり、参加したりで、けっこう忙しく過ごしていました。

ところが、今年はまずうちの奥様(同業者)が「私もそろそろどっか行きたい(勉強会)」ということになり、GW前半は留守番役、そして後半はあるワークショップのお手伝いの予定だったのが、開催されずということになったので、結局9日間オフということになりました。

といっても小心者なので中野の事務所に行ったり、そして何よりも山のように残ったデスクワークに集中しました。

デスクワークしているとだんだんとモンモンとしてきます。そのときにするのが〝イエスの瞑想〟です。この瞑想はサイキックマッサージまてぃが教えてくれたもので、シンプルで効果的なのでよく行っています。

やり方はまずポカンとして、次に「もしこの瞬間にイエスと言ったなら」と声に出して、次に起こることにオープンになります。手足が動くかもしれないし、言葉や言葉にならない声が出るときも、そしてサイレンスのままのときもあります。ただその瞬間に起こること、そして自分を信頼します。

イエスの瞑想を初めて体験したとき、野口整体の活元運動やトレガーアプローチのメンタスティックスにも共通するところがあるな‥と思いました。

そんなこともあってイエスの瞑想に活元運動的なことやメンタスティックス的な要素をパラパラとふりかけてやっています。

魂と肉体の境界線

今回やってみたのは「魂にイエスと言ったなら」「体にイエスと言ったなら」と問いかけたことです。頭(意識)ではない領域に問いかけることはメンタスティックス的です。メンタスティックスの場合は体に質問して体からの回答を待ちます。そしてそこに現れきたものを、オープンに受け取るのは活元運動的、そしてイエスの瞑想です。

しばらくやって気づいたことはふたつの問いかけがだんだんとひとつのものになってくることです。最初は魂と体をそれぞれ別なものとして扱いました。そこでは微妙な感覚や出処のちがいを感じましたが、だんだんとそれがひとつのものになってきました。魂と肉体の境界線があいまいになってきた感じです。

〝境界線をあいまいにする〟という表現には〝?〟という方もいらっしゃると思います。別の表現をするならば、〝肉体はここまでとする〟や〝魂と肉体はちがう〟という表現のなかには境界線を固定する傾向があります。

そもそもなぜ魂と体の境界線をあいまいにするのかという問いかけも出てくるかもしれません。それは最近のぼくにとっては自分の幸せや健康を考えるときに魂と体をそれぞれ別のものとして考えることができなくなってきたらからです。

だからその境界線があいまいになったり、自由に移動することで魂と肉体が相互に感じ合い、重なり合うようになってきます。

 

境界線と光のマッサージ

境界線のことはサガプリヤ式光のマッサージを行っているときにもしばしば体験します。光のマッサージは肉体にしっかりとタッチしてマッサージするのですが、実は対象としているものは身体にある光であり、瞑想です。

いきなり光・瞑想とくるとまた〝?〟となるかもですが、それぞれの境界線をあいまいにすると新しいイメージが生まれてきます。それは拡がり・暖かさ・くつろぎ・静けさ・平和‥などなどです。

連想ゲームという訳ではありませんが、イメージを拡げることで対象とのチャンネルを増やすことができます。あとはイエスの瞑想のようにオープンになること、自分を信頼することです。

サガプリヤ式光のマッサージを受けると自分のなかの回路が広がった感じ、自分という存在が広がった感じがします。そういう点では境界線の幅の拡がりを感じるといっても良いかもですね。

与える側もまた面白いです。肉体という具体的な存在の境界線があいまいになり、その人(受け手)という存在そのものに触れたような感覚を体験します。

心と体はひとつという表現は自然療法のなかではしばしば語られます。同様に肉体という具体的な存在とともに心、感情、魂、意識、オーラ、チャクラ、エーテル、アストラル、光、瞑想、思い、エネルギーといったさまざまな表現、領域を含めることは、自然療法、ボディワークの可能性をさらに拡げることになると思います。

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